展示場のガラスって、外から見えてる以上に、中からもよく見えてる。 駐車場で君が髪を直したの、たぶん見られてるよ。
俺は昔、街で声をかける仕事をしてた。同じ台詞を、同じ角度の笑顔で。だから言えるんだけどさ、ああいう仕事をしてる男が出す親切って、蛇口みたいなもんなんだよ。ひねれば出る。誰に向けても同じ温度で。
車屋の営業も、住んでる世界はそう遠くない。背中に数字が貼りついてて、月末が近づくと胃のあたりが重くなる。会話の中で名前を三回呼ぶ。持ち物じゃなく選び方のほうを褒める。あのへんは研修で叩き込まれるか、先輩に詰められながら体で覚えるやつ。
あの優しさ、たぶん君だけに向いてない
名前を三回呼ばれた時点では、まだ何も起きてない
営業マンの評価って、売った台数だけじゃ決まらないんだよね。納車のあとに送られてくるアンケート、あれの点数が査定にそのまま乗る店がけっこうある。だから彼らは全員に丁寧。八十歳のおばあちゃんにも、冷やかしの大学生にも、君にも。 笑顔の在庫を切らさないのが仕事。 名刺の裏に携帯番号を手書きしてくれた? 悪いけど、あれ全員にやってるからね。ボールペンの色が決まってる店すらある。
一晩で四十人に同じ顔を配ってた男の話
深夜二時の駅前。声が枯れて、握ってた缶コーヒーだけが熱かった。 目を三秒だけ見る。名前を聞いたら必ず復唱する。褒めるのは服じゃなくて、その服を選んだ理由。俺のやり方はそれだけ。 それでも月に何人か、本気で連絡してくる子がいた。着信を見た瞬間、みぞおちのあたりがざらっとした。
その子が見てるのは俺じゃない。俺が三分だけ羽織ってた上着なんだよな。 ショールームの商談席で起きてるのも、たぶん同じ。
それでも、蛇口が壊れる瞬間はある
元同業で、足を洗って車屋に行った男がいる。展示場の裏の喫煙所で、九割の客は顔も覚えてないって笑ってた。 その舌の根も乾かないうちに、スマホの画面を見て黙り込んだんだよ。通知の相手は、担当してる女性の客。灰が伸びきったまま、指が止まってた。
仕事の皮が剥がれる瞬間って、あんな感じ。 本人が一番、間抜けな顔してた(笑)
営業マンが勝手に気にしはじめる女性の共通点
決断が速い人より、迷い方が正直な人
即決してくれる客が好かれる、みたいな話をよく見るけど、現場の感覚はちょっと違う。 彼らが疲れるのは、迷ってることを隠す客。持ち帰って検討します、と言いながら二度と来ない。あれを何十回も食らってる。
逆に、今日は決められない、来週の水曜にもう一回来る、って言い切る人。 予定が読める相手は、それだけで頭の中の優先順位が上がるんだよ。次に会う日が確定してる相手のことは、人間、勝手に考える。恋愛感情の入口って、案外そういう事務的な場所にある。
他人の仕事を値切らない人
値引き交渉が嫌われるわけじゃない。あれは仕事だから、彼らも織り込み済み。 線を越えるのは、金額の話に人格を混ぜたとき。他店はもっと出してくれたのに、あなたじゃ話にならない。この一言で、相手の中の何かが静かに閉まる。
俺がスカウトやってた頃も同じでさ。条件を詰めてくる子は平気なんだけど、こっちの仕事ごと安く見てくる子には、二度と本気の店を紹介しなかった。 守りたい人間の順番って、そういう小さい記憶で決まる。
見積書を出したあとの十秒に耐えられる人
紙をテーブルに滑らせたあとの沈黙。あそこで喋り倒す客と、黙って数字を読む客がいる。 黙れる人は強い。営業側からすると、こちらのペースが効かない相手として記憶に残る。
そして記憶に残るってのが、全部の入口。 好かれる前に、まず思い出される。順番はそれ。
一瞬で客の枠に戻される言動
店員の扱いは、必ず回覧されてる
コーヒーを持ってきたスタッフ、洗車場の若い子、受付の女性。彼らへの態度は、その日のうちに営業マンの耳に入る。 事務所って狭いんだよ。あの席の客、感じ悪かったよね、が普通に飛び交う。
俺の見てきた範囲だと、営業の男が本気で気になった女性を語るとき、必ずこの話が出てくる。片付けを手伝おうとしたとか、名前も知らないスタッフに礼を言ってたとか。 車の趣味の話は、一回も出てこなかった。
相手の繁忙期を踏み抜くと、それだけで終わる
三月と九月。決算がかかる月は、彼らの目が死んでる。土日の午後は商談が三件重なってて、昼飯がガムだったりする。 その時間帯に、雑談のLINEを連投する。既読がつかないと追撃する。 これをやると、面倒な客の棚に移される。恋愛以前の話。
狙うなら平日の午前。展示場が静かで、コーヒーが二杯出てくる時間帯。
脈ありは商談の外側にしか落ちてない
車の話をしてない時間が伸びてきたか
商談中の褒め言葉は、全部ノイズだと思っていい。 見るべきは、契約書から手が離れたあとの時間。試乗から戻って駐車場で立ち話が十分続く、みたいなやつ。あれは彼の売上に一円も貢献しない。
数字にならない時間を君に使いはじめたら、そこが分岐点。
納車が終わってから、連絡が残るか
点検の案内、車検の通知。あの手のメッセージは会社のシステムが勝手に送ってる。営業マンは指一本動かしてない。 判断材料になるのは、車と何の関係もない連絡が、個人の端末から来るかどうか。
昨日の地震、大丈夫でした。 これが来たら、もう半分こっちのもんだよ。
俺のアドバイスで一人沈めた、あの夏
知り合いの女性に、押せばいけると言ったことがある。担当営業が明らかに乗り気だったから。 彼女は真に受けて、用もないのに週三で店に行った。カタログをもらいに、みたいな口実で。
三週間後、電話が鳴った。声が湿ってた。 店長が出てきて、担当を変更させていただきますって言われたらしい。彼はカウンターの奥から一度も出てこなかったって。
受話器を持ったまま、耳が熱くなった。俺が押した背中で、彼女が転んだ。 好意のサインと、営業のサービスの見分けがつくと思い上がってたのは、彼女じゃなくて俺のほう。 はぁ…。あれ以来、いけるって言葉は使わなくなった。
客席から降りた人と、降りられなかった人
三ヶ月かけて、車以外の話を三つだけ積んだ
うまくいった例も書いとく。 彼女がやったのは、点検やオイル交換のたびに、車と無関係な話を一つだけ置いて帰ること。犬を飼いはじめた、実家が遠い、その程度。 毎回二分。長居はしない。
決定打は台風の日。納車が延期になった連絡に、外まわり気をつけてくださいね、と返しただけ。 その夜、彼から店の名義じゃない番号でメッセージが来た。 三ヶ月分の二分が、そこで効いた。
情報を渡すと、相手は勝手に動きやすくなる
主導権を握れ、みたいな話は俺は好きじゃない。握るより、渡すほうが早い。 休みが火曜だとか、駅前の喫茶店によくいるとか、そういう手札を先に見せる。営業の人間って、相手の予定に合わせて動くのが染みついてるから、余白があると本当に踏み込んでくるんだよ。
閉じた相手には近づけない。彼らは断られるのが商売で、それでも断られたくない生き物だからさ。
それでも、やめとけと言う場合もある
顧客との交際を明確に禁じてる会社は実在する。彼が慎重なのは、君に興味がないからじゃなく、口座から給料が消えるのが怖いだけかもしれない。 そこを読み違えると、さっきの夏みたいなことになる。
もう一つ。 君が好きなのは彼なのか、それとも、彼が用意した二時間のほうなのか。 コーヒーが出てきて、話を遮られなくて、選択を急かされない時間。あれ、日常でなかなか手に入らないよね。 そこを一回だけ、正直に確かめてほしい。

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